「高齢者と社会の関わり方」について改めて考える

孤独死問題
2025/09/16
文:藤掛千絵

9月15日は敬老の日でした。今年も「高齢者人口が過去最高を更新した」というニュースが流れ、日本が世界有数の高齢社会であることを改めて実感しました。

併せて、先進国の高齢者保障と日本の高齢者保障を比較したコラムを読んでいましたが、改めて思ったのは「制度やサービスが整っているはずの日本」でも、孤独死という現実があるということです。

この複雑な現実を前に、「高齢者と社会の関わり方」について改めて考える必要性を感じました。

「老害」という言葉が使われる背景

近年、インターネットやSNSを中心に「老害」という言葉がしばしば目に入ります。高齢者の一部に、過去の価値観にとらわれて他者を尊重せず、自分の考えを押し付けるような態度が見られることも事実です。しかし、こうした行動の背景には、戦後から高度経済成長期にかけて根付いた家父長制や性別役割分担の慣習といった社会的要因が強く影響しています。

つまり、「老害」と呼ばれる振る舞いは単なる個人の性格の問題ではなく、社会が長年積み重ねてきた価値観の副産物でもあるのです。この点を理解しないまま、言葉だけで批判を強めてしまうと、問題の本質を見誤る危険があります。

また近年、「高齢者は自決すべき」といった過激なメタファーが話題になったことがあります。現実に制度化されることはありませんが、発言が注目を集め、一部で共感を呼んだのはなぜでしょうか。

背景には、急速な高齢化によって若い世代に「負担ばかりで将来が不安」という感情が広がっていることがあります。さらに、実際に高齢者の一部に見られる「老害的」と形容される態度が、若い世代の反発を強める要因にもなっています。介護の重圧等も無視できません。

このような社会的な不安や不満が積み重なっているからこそ、過激なメタファーが共感を呼んでしまうのです。言葉そのものが支持されているというより、制度のひずみや社会のいらだちを映し出す“鏡”として受け止められているのでしょう。

制度はあるのに届かない現実

日本には、公的年金制度や国民皆保険、介護保険など、高齢者を支える仕組みがある程度整っています。国際的に見ても手厚い部類に入りますし、若い世代から見れば「高齢者ばかりずるい」と優遇されているようにも見えます。
しかし「制度がある」ことと「実際に使える」ことが一致していないという、大きな問題点があります。

制度が存在しても、情報が分かりにくい、申請が複雑である、そもそも制度の存在が知られていないといった理由で、支援にたどりつけない人が少なくありません。
ここには「経済的格差」だけでなく「情報格差」という第二の格差が横たわっています。
支援策を知っている人と知らない人の間で、生活の質に大きな差が生じてしまうのです。こうした「制度の死角」に取り残される人々の存在が、今の日本の課題として浮き彫りになっています。

未来の自分を守る視点

高齢者を切り捨てるような思想は、短期的には社会の負担を軽くするように見えるかもしれません。しかし長期的には、自分自身もの安心感を損なってしまいます。誰もがいずれ高齢者になるからです。

特に懸念されるのが「就職氷河期世代」の存在です。非正規雇用や低賃金に長く置かれた人々は、年金の納付額が十分でないケースが多く、将来的に「低年金高齢者」として生活困窮に直面するリスクが高いとされています。もし制度の死角が今のまま放置されれば、この世代が高齢期に突入する頃、孤独死や生活困難がさらに拡大する可能性があります。

行政の役割は、制度を分かりやすく公開し、確実に必要な人に届けることにあります。
また「高齢者優遇の制度」ではなく「未来の自分を守るための仕組み」として広報することで、世代間の不満や対立をやわらげることができます。
誰もが“制度から取り残される”ことがないように、根本から変わっていく必要があり、これは日本社会が避けて通れない課題です。

終わりに

敬老の日のニュースをきっかけに、改めて高齢者と社会の関わり方を考えました。
「老害」といった批判的な言葉や、過激なメタファーに共感が集まるのは、裏を返せば現在の社会保障制度の負担や終末期への不安が存在しています。
一方で、日本には制度が整っていながら、それが十分に届かず、多くの人が取り残される現実もあります。

大切なのは「切り捨て」ではなく、「誰もが安心して老いを迎えられる仕組み」を実効性のある形で運用し続けることではないでしょうか。
制度の死角をなくし、分かりやすく届けること。
そして「未来の自分を守る仕組み」として広めていくこと。

それこそが、超高齢社会を生きる私たちに求められている姿勢だと感じます。

藤掛千絵